固定費の中でいちばん大きいのは人件費です。そして、いちばん判断が難しいのも人件費です。「給与をいくらまで払えるのか」「来年の賃上げは何%なら大丈夫か」「もう一人雇えるのか」。感覚で決めると、数年後に影響が出ます。今回は、この判断を数字でできるようにする2つの道具、労働分配率と一人当たり粗利です。
1. 人件費は、売上ではなく「粗利」から払う
人件費の原資は売上ではありません。売上から材料費と外注費を引いた粗利(限界利益)です。決算書の「売上総利益」は、社員の給与(労務費)が工事原価に入っていることがあるので、ここでの粗利とは別の数字です。第5回で見たとおり、サンプル工務店の粗利は3,200万円。この中から、人件費と、家賃などのその他の固定費を払い、残りが利益になります。
▲ 粗利3,200万円の分配を示した図。人件費1,800万円(56%)、その他の固定費800万円(25%)、営業利益600万円(19%)。労働分配率は人件費÷粗利で56%。
粗利のうち人件費が占める割合を労働分配率といいます。サンプル工務店は、人件費1,800万円÷粗利3,200万円=56%。人件費には、給与と賞与だけでなく、社会保険料の会社負担分や社長の役員報酬も含めて数えます。目安は業種や、人件費に社長の報酬を含めるかで大きく変わります。サンプル工務店のように、その他の固定費が粗利の25%なら、人件費が75%で利益はゼロです。人件費の率とその他の固定費の率を足して100%に近づいていないか、去年より上がっていないか、の2つで見ます。
この率の意味は、「稼いだ粗利1万円のうち、5,600円が社員の給与に、2,500円が家賃や車両に使われ、1,900円が会社に残っている」ということです。人件費も家賃も固定費なので、粗利が増えても自動的には増えません。粗利が増えて人件費がそのままなら率は下がって利益が増え、逆に、粗利が減ったのに人件費がそのままなら、率は上がり、利益から削られます。
2. 一人当たり粗利と、賃上げの計算
労働分配率と並べて見たいのが一人当たり粗利です。粗利を社員の人数で割ったもので、サンプル工務店は3,200万円÷4名(社長を除く社員数)=800万円。社員一人が1年で稼ぐ粗利が800万円、という意味です。社長も現場に出る会社なら社長を含めて割ってもかまいません。大事なのは、毎年同じ数え方で比べることです。この数字は、同業と比べるより、自社の去年と比べます。去年より上がっているかどうかが、賃上げできるかどうかの答えです。賃上げの原資は、基本的に一人当たり粗利の伸びです。利益を削って払うこともできますが、それは毎年は続きません。
では、賃上げを数字にしてみます。社員4名に月2万円の賃上げをすると、年間で96万円。給与が上がると社会保険料の会社負担(健康保険・厚生年金で給与のおよそ15%。雇用保険・労災保険も入れると17%前後)も一緒に上がるので、会社の負担は年に約110万円です。
▲ 月2万円の賃上げを会社の数字にした図。4名×2万円×12か月で96万円、社会保険料の会社負担を足して年約110万円。労働分配率は56%から60%に、営業利益は600万円から490万円に下がる。56%を保つには粗利を約200万円、売上で約500万円(6%)増やす必要がある。
こう並べると、月2万円の賃上げは「利益が110万円減る」か「売上を増やして取り戻す」かのどちらかだと分かります。利益600万円を守るだけなら粗利で110万円、売上で約280万円(3.5%)の増収。労働分配率56%まで戻すなら売上で約500万円(6%)です。どちらを選ぶかは社長の判断ですが、判断の前に数字にすることが大切です。賃上げは一度すると、簡単には戻せません。来年も、その次の年も続く固定費です。そのため単年の利益ではなく、第5回の損益分岐点がいくら上がるかで見ます。110万円÷12か月=月9万円の固定費増。損益分岐点の売上は月23万円(9万円÷粗利率40%)上がります。
3. もう一人雇えるか――採用の損益分岐
賃上げの次に多い相談が「もう一人雇えるか」です。これも同じ考え方で数字にできます。年収400万円の職人を一人採用するとします。会社が払うのは400万円ではありません。社会保険料の会社負担が約60万円、車両・道具・作業着・研修などが年に40万円ほど。合わせて年500万円の固定費が増えます。
この500万円を、その人が稼ぐ粗利で賄えるかどうかが、採用の損益分岐です。粗利率40%なら、売上で1,250万円。いま外注に出している仕事をその人がやるなら、減る外注費も粗利の増加として数えられます。つまり、年1,250万円の仕事を新たに取れる見込みがあるかが問いになります。ただし、これは収支が釣り合う線です。いまの一人当たり粗利800万円を保つなら、売上で2,000万円の上積みが要ります。
▲ 年収400万円の採用を会社の数字にした図。増える固定費は給与400万円・社会保険料の会社負担60万円・車両や道具40万円の合計500万円。収支が釣り合う線は粗利500万円=売上1,250万円。一人当たり粗利800万円を保つなら粗利800万円=売上2,000万円。
採用した人が一人前になるまでには時間がかかります。最初の半年は、先輩の手が取られる分も含めて、粗利はほとんど増えません。そのため採用の判断は、「来年の受注が1,250万円増えるか」ではなく、「いま断っている仕事が年1,250万円以上あるか」で考えると現実に近くなります。断っている仕事があるなら、採用は成長への投資です。ないなら、先に仕事を取るのが順番です。
4. 賃上げの負担を軽くする制度――賃上げ促進税制
賃上げをした会社には、法人税を減らす制度があります。賃上げ促進税制です。社員への給与の総額が前の年度より増えた割合に応じて、増えた金額の一部を法人税から直接差し引けます(税額控除)。中小企業向けの内容は次のとおりです(国税庁タックスアンサー No.5927-2、2026年10月時点)。
▲ 中小企業向け賃上げ促進税制のしくみを示した図。給与総額が前年度比1.5%以上増で増加額の15%、2.5%以上増で30%を法人税から控除。くるみん・えるぼし認定で5%上乗せ。教育訓練費の上乗せは令和8年4月1日以後に始まる事業年度では使えず、最大は35%。1年で引けるのは法人税額の20%まで、引けなかった分は5年間繰り越せる。
サンプル工務店で計算してみます。社員4名の給与・賞与の合計(役員報酬は対象外)が前年度1,200万円で、月2万円の賃上げで96万円増えると、増加率は8%。2.5%の要件を満たすので控除率は30%、96万円×30%=約29万円が法人税から引ける計算です。ただし1年で引けるのは法人税額の20%まで。サンプル工務店の法人税はおよそ90万円(所得600万円×15%)なので、今年引けるのは18万円。残りの約11万円は翌年以降5年間に繰り越せます(繰り越した年も、給与総額が前年を上回っていることが条件です)。賃上げの負担110万円のうち、数年かけて約29万円が戻る、と考えてください。
注意点が2つあります。ひとつは、以前あった教育訓練費の上乗せ(10%)が、令和8年4月1日以後に始まる事業年度では使えなくなったこと。3月決算の会社なら、いまの期(令和9年3月期)からです。もうひとつは、この制度は令和9年3月31日までに始まる事業年度が対象で、その先は今後の税制改正で決まること。賃上げの判断を税制に合わせる必要はありませんが、賃上げをするなら使える制度は使う、という順番です。
いまのトピック:最低賃金。令和8年度の地域別最低賃金は、全国加重平均で時給1,177円(前年度1,121円から56円の引き上げ)となり、令和8年10月1日から12月2日の間に都道府県ごとに順次発効します(厚生労働省、令和8年9月3日発表)。時給制のパート・アルバイトがいる会社は、自社の都道府県の発効日と金額を確かめてください。最低賃金の引き上げは、その人の時給だけでなく、社員との差を保つための賃上げにもつながるので、労働分配率を押し上げる要因になります。
まとめ:第11回のポイント
- 人件費は売上ではなく粗利から払う。労働分配率=人件費÷粗利。その他の固定費の率と足して100%に近づくほど利益は残らない。去年より上がっていないかを見る。
- 一人当たり粗利=粗利÷社員数。去年より上がっているかどうかが、賃上げできるかどうかの答え。
- 月2万円の賃上げは、社会保険料を含めて年約110万円。利益を守るなら売上3.5%増、労働分配率を保つなら6%増。損益分岐点は月23万円上がる。
- 年収400万円の採用は、年500万円の固定費。収支が釣り合うのが売上1,250万円、一人当たり粗利を保つなら2,000万円の上積みとセットで判断する。
- 賃上げ促進税制で、増えた給与の15〜35%を法人税から引ける。上限は法人税額の20%、引けない分は5年繰越。教育訓練費の上乗せは令和8年4月1日以後開始の事業年度では使えない。
次回は最終回。決算の前に、社長が自分でできる12のチェックです。棚卸、未成工事、未払費用、減価償却、役員貸付金、特別損益、納税資金……。このシリーズで見てきたことを、決算前の1枚のリストにまとめます。
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※本記事は、一般的な情報を分かりやすくまとめたものであり、個別の会計・税務・労務相談に応じるものではありません。計算例の金額は説明のための想定です。賃上げ促進税制の内容は2026年10月時点の国税庁の公表資料にもとづいており、今後の税制改正で変わることがあります。社会保険料の料率は業種・都道府県・年度により異なります。実際の判断にあたっては専門家にご相談ください。